トコトコ中国バスの旅

 

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Update : 2020.10.6

 

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▼安陽 − 世界遺産の殷墟へ [2020.10.3(土)、4(日)

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【旅日記】

2020.10.3(土)  歩き疲れズタズタ

5:00 アパートを出発。北京西站を6:43に発車する高鉄に乗り遅れないよう、東直門から地鉄2号線内回り5:14発の始発に乗るため。

 

外は未だ真っ暗。

 

北京西站へは、特2路の2階建てバスが便利だが、始発が6:00なので全く間に合わない。

ホームには始発を待つ人がチラホラ。

次の列車までの待ち時間を示すモニターには表示なし。大丈夫か?少々心配。

時刻表を発見。文明開化!

 

列車も時間通り来た。

朝陽門で2号線から6号延に乗り換え、次に白石橋南で9号線に乗り換え、北京西站で下車。

 

このゲートの数、相当な乗降者数なのだろうが、この時間はガラガラ。

6:00 地鉄を出て火車站に向かう。

地上に出ると、外が明るくなっていた。

 

ここで、写真を撮るなと保安に注意された。この2日間で唯一。

何ごとも無く安全検査と改札を通過。

今回は、鉄路アプリで購入した火車票を予め前日貰っておいた。それを折り畳んでパスポートカバーに挟み検札の服務員へパスポートを渡した。すると、機械にパスポートNo.を手入力し、呼び出されたデータとパスポートを照合し通された。やはり、鉄路アプリで予約すれば外国人もパスポートだけで良い様子。

これは、帰路、邯鄲東路で間違い無いことを確認。

 

エスカレータで2階へ上がると巨大なホールが現れる。

今日のG507の待合室は、「89」。

 

この時間の列車を見るだけで、色々な名所旧跡へ思いが馳せる。

今となっては旧式の駅舎だが、兎に角大きい。

待合室には空席がチラホラ。然程混んでいないようだ。

 

本当は国慶節連休初日の10/1に出発したかったが、終日満席だった。連休も3日目になると、田舎でゆっくり休む人も旅行に出掛ける人も減っているのだろう。

そう考えると、今日の出発は怪我の功名。

待合室も綺麗になっていたが、一番大きな変化はトイレ。文化レベルが大きく上がった。

6:13 改札が始まった。発車30分前。

 

いつもここで、押し合いへし合いや横入りにウンザリする。

 

しかし、一呼吸置いたのもあるが、ガラガラで予想外。カチカチ切符を切らなくなったことが一番の改善要因か?

大きなホームに発車を待つ列車が並ぶ。

さあ、いよいよ出発。

北京は太陽が出ていたが、河北省に入り保定辺りから厚い雲に覆われ太陽が隠れた。

復興号は速度300km/hで巡航。

9:15 安陽東站へ到着。

 

観光目的で訪れた人は皺めて少なそう。

出口正面に大きな看板。

 

バス停の方向が書いてあり有り難い。その他に、と言うか、こちらがメインなのだろう、観光ツアーの紹介。少し考えたが、綿密な計画を立てて来たので計画に沿って行くことにした。

大きな駅舎。

更に大きな駅前広場。これからどう使うのか?

サインが分かり易くて嬉しい。

9:25 高鉄站を発見。

11路を終点の紗廠まで乗車。

 

終点なので乗ってしまえば安心。

9:29 11路に乗車。タイムリーで嬉しい。

 

運転者に料金を尋ねると、応えは「1元」。素晴らしい。貯め込んで来た1元札が活躍。

 

小姐は電子決済が通らず悪戦苦闘。やっぱり現金払いが一番。

10:10今夜の宿をどこにするかも考えながら安陽の町を楽しんでいると、アッと言う間に紗廠へ到着。

降りたは良いが、位置や方向を示すものが全く無い。これは地図アプリに頼るしかない。

 

主目的の殷墟はこの紗廠路を真っ直ぐ西へ向かう。目的地には入れなかったが、気になる袁世凱の墓所「袁林」は反対方向へ2.7km。少し考えたが、初志貫徹。殷墟へ向った。

間も無く南北を走る泰祥路と合流。

 

先ずは斜め左へ向う紗廠路を進む。

 

右は殷墟王陵遺址。

 

反対方向に現れた道路標識を振り返って見ると、「殷墟王陵遺址5.5km」結構距離がある。

安陽河の向こう岸に金色に光るモノが見えた。

第一目的地の商魂だ。

 

商魂の大きな彫刻は安陽市殷墟宮殿宗廟遺跡の西南に位置している。彫刻長26m、幅8.8m、高さ14m。大規模な彫刻「商魂」は市の重要な文化景観とランドマーク的な建築であり、その建設は安陽市民の都市文化の品位を高める上で重要な意義がある。

 

との謳い文句の一方で、一般市民のネット評価は様々。

大規模な公園復元工事が進んでいた。

紗廠路が殷墟路に合流。

交流地点の北西角に殷墟宮殿宗廟遺址のサイン。

 

大きな石に彫られている。

ゲートまで500m

 

商魂の足元まで行くつもりだったが、橋から姿を見て満足してしまい遺址へ直行。

10:41殷墟宮殿宗廟遺址へ到着。

世界遺産のコレクションが一つ増えた。

 

早くも今回の旅の最大の目的は達成。

しかし、天気がな〜。少々残念。

早速售票処へ。

 

然程混んでおらず良かった。

70元支払いチケットを購入。80分の切手が印刷された絵葉書になっている。

 

おや?印刷は90元。裏に「実售票価70元」とスタンプされていた。

 

殷墟宮殿宗廟遺址、博物館、王陵遺址の共通券。夫々で支払い、合計230元と思って来たのでラッキー。

入口でトラブル。交通事故と同じで、横に避けることをしないので大渋滞発生。これは要改善。

更にゲート。大きい。

 

洹水の南岸にある小屯村、花園荘のあたりに位置し、総面積は71.5万u。商王が政務を処理し、日常生活を送る場所で、殷墟遺跡の最も重要な部分。

1928年以来、考古学調査によって宮殿、宗廟などの遺跡は80ヵ所余も発見された。これらの建築の殆どはしっかりした土台に築かれ、木と土を主な建築材料とし、建築の骨格は木の柱で構築、壁は土で固定され、

屋根は茅で覆われていて、素朴で美しい。本館は高く立派で、庭が左右対称。中国伝統建築の手本となり、代々踏襲されてきた。

宮殿宗廟遺跡の西と南には敵の攻撃を防御するための塹壕があり、南北1.1km、東西0.65km、幅1020m、深さは510mある。塹壕の東と北の両端は洹河と繋がり、宮殿宗廟を囲み、水防や防衛施設を構築した。

1976年に小屯村から100m離れる所に商王22代皇帝武丁の妃、婦好の墓も発見され、これは今まで発見した最も完全に残された墓。墓内には殉葬者16人、出土文物は1,928件あり、中には青銅器が468件、玉器が755件、骨器が564件があるほか、7,000個ほどの海貝も掘り出された。

1899年に獣骨などに刻まれた甲骨文字がここで最初に発見されて以来、世界の考古学界に注目され15回に亘る発掘調査の結果、それまで疑問視されていたその存在が実証され、2006年に世界遺産へ登録された。

来場者が少なくて良かった。

殷墟で最も有名な物が、高さ133cm、長さ110cm、幅78cm、重さ875kgの「司母戊大方鼎」。今は后母戊鼎と改名されている。器の内壁に「后母戊」の三文字が刻まれたことから「后母戊鼎」と名付けられた。これまで世界で発見された最大の青銅器。

 

これは巨大化したモニュメントなのは明らかだが、本物は中国国家博物館に収蔵されている。

いよいよご対面。

 

先ずは甲骨文字。

 

全景。

出土品の展示が豊富。

 

雨がポツポツ降って来た。発掘地が早速グランドシートで覆われてしまった。

 

土産物売り場は文字通り特色記念品ばかりで面白かった。

 

しかし、全く人気無し。

北組宗廟祭祀坑

 

夥しい数のガラスで覆われた穴。

その全てが発掘された骨。

 

中には動物も。

紅い柱は、往時の建物の柱の跡。

 

大きな建物が並んでいた様子が分かる。

甲骨文字が並ぶ壁。

 

色々な場所で色々な物が出土。

200元でガイドしてくれる。これだけ広いと効率的に回るためにも安い買い物。

 

婦好墓

1976年に発掘された陵墓。南北5.6m、東西4m、深さ7.5m。ほぼ完全な形で発掘されたことから、中国考古学界の功績のひとつに数えられている。

「母辛亨堂」は、第22代皇帝武丁の妃、婦好を祭った所.

立派な副葬品が多数。

 

小物は精巧。

階段を降りた時には殉葬者に気付かず、横に回って少々吃驚。

懐かしい記念メダル。

 

次は博物館へ。

共通券にパンチで穴が明くと入場OK

地下に向かって下って行く。

ここの安全検査は厳重。ライターは没収。

殷墟は広かった。

水道管に大きな水瓶。水は大切。

 

ジオラマと絵で紹介。

 

中は半密。ここではマスク着用。

海の無い地に海貝。貨幣だったとのこと。

 

動物を模ったものも多い。

こんな矛先に刺されたら一溜りも無い。

 

大きな出土品も多い。

 

リアルな造り。

一つ一つ見ていたら、それだけで丸一日以上掛かりそう。

玉も動物に模られていた。

 

甲骨文字と現代漢字対照表。

 

骨に刻まれていた。

ボランティアが后母戊鼎について解説。

 

ここはしっかり3密。

出口の売店はそれなりに足が止っていた。しかし、商品を持つ人の姿は見なかった。

甲骨文字の碑林。

 

馬車坑展庁

中国最古の馬車が発掘された遺跡。

ここには、車馬坑が6つと馬車が通った道路の跡を展示。

夫々2頭の馬が引く。

甲骨窖穴展庁

こうして発見された。

 

12:31 宮殿宗廟遺址を後に、安陽河に架かる橋からもう一度商魂を見て王陵遺址へ向った。

 

朝見た5.5kmの標識に従い、泰祥路から続く紡績路を北へ向った。

 

宮殿宗廟遺址の出口にマイクロバスが停まっていた。「宮殿宗廟⇔王陵」直通の「観光用」と30分間隔で走っているとのサインが出ていた。私の想定ルートとは違う。安陽東站で見た観光ツアーかも?声を掛ける間も無く発車して行ったので、どんなバスか正体不明のまま次の”殷墟”へ向ったが、アパートに帰り地球の歩き方を読むと5.5kmを結ぶ”無料カート”があると書いてあった。カートは走っていなかったし、今時走っていたら危険極まりない。そこから想像するに、あのバスはカートに変わる無料バスだったのだろう。

歩けど歩けど何も標識が出て来ない。バスが出入りする交差点があったが、そこにも何も無い。

 

今回の目的地とルートは、地図アプリに出て来る名所旧跡から予め決めて来た。次の”殷墟”は固有の施設がピンポイントでる訳ではなく、宮殿宗廟も王陵出て来るので怪しいとは思っていた。見つからなければ、その次の呉家大院へ行くつもりで歩いて来た。

 

13:04 ”殷墟”のプレート。もしやここに何か?周囲を見渡したが何も無い。

ここで初めて地図アプリで位置を確認。おやおや、呉家大院へ向う道を大きくオーバーしている。それどころか、この道を西へ向うと王陵遺址。ガックリ。

 

順番を変えると本日最後の目的地までの区間距離が長くなるが、使えるバスもなく歩く距離は変わらないので気を取り直して王陵遺址へ向って前進。

レトロな村へ進入。

ところが、井戸端会議中の婆ちゃん達の先で直進する筈の道が無くなった!

 

侵入者はどこでも注目される。

村の中を迷走し広い道路に出た。

 

ここにも”殷墟”プレート。この後も数回遭遇。何となく、これで3番目の目的は達成したような気になった。

 

ここで漸く安心材料を発見。

王陵遺址の方向が分かった。

 

迷走するうちに南へ向っていた。王陵遺址へ向うと更に歩行距離が必要になる。順番を元に戻して呉家大院へ向う事にした。

立派な門を備えた住宅が多い。

天日干ししたとうもろこしから機械を使って実を捥ぎ取っていた。

迷走してから地図を開く回数が増えた。

 

どうやら前方の林辺りが目的地らしい。

林の手前に司母戊学研実践基地なる施設。

立派な施設。

 

何か臭うなぁ〜。

13:49 呉家大院へ到着。2kmほど余分に歩いた気がする。

 

呉家大院は後母戊鼎の埋蔵保護所で、抗日戦争期間(1939年〜1946年)に後母戊鼎保護の埋蔵地として使われたことで有名。

四百年以上の歴史があり、その建築形態は中国の伝統的な煉瓦の木造建築構造で、三進九門の写真院。東西30m、南北100m、総面積は約3,000u。

1939年春、呉家一族は武官村の西北にある呉家柏林で司母戊鼎を発見した。侵略者、匪賊に略奪されないように、呉培文は1939319日朝、後母戊鼎を掘り起こして出土した。

漢奸の密告によって日本軍が何度も呉家大院の捜査に行ったが、呉培文は中国人の民族気骨と知恵で前後三回にわたって大鼎を呉家大院の西屋馬小屋、東屋草料房に移して守った。

1946年、国民政府第31集団軍は大鼎を掘り出し、蒋介石の誕生祝いとして南京に送り、元中央博物院の準備所に預けた。

1959年に大鼎は北京に運ばれ、中国国家博物館に設置された。

中に入ってみたい。

隣は映画のセットさながら。

奥の建物は呉家大院の一部か?立派だなぁ。

周囲には立派な門構えの家が並ぶ。

朽ちた標識から王陵遺址1kmの文字が読み取れた。

しかし、50m先の新しい標識は2km

 

新しい方が正しいだろう。残念。

14:11 朽ちたモニュメントが見えた。奥へ向う道がある。着いたか?

 

いや、行き止まり。ここではない。

14:22 今度こそ間違いない。殷墟王陵遺址へ到着。

宮殿宗廟遺址よりも来場者が随分少ない。

林檎畑の間を行く。

 

殷墟王陵遺址は洹水の北岸にあり、宮殿宗廟遺跡と川を隔てて向かい合う。商時代の皇族墓地と祭祀場で、「司母戊鼎」の出土地として世界に名が広がった。

東西450m、南北250m。1930年代から今まで、ここで王陵が13カ所、未完成の墓が1カ所ある。殉葬の墓が2,000カ所余り発見され、祭祀場、馬車坑も数え切れないほどある。

中から青銅器、玉器、石器、陶器など宝物が数多く出土し、ここは殷商の時代の王陵と学術的に認められ、中国古代文化芸術宝庫に燦然と輝く真珠のような存在である。

王陵の多くは「亞」、「中」、「甲」という字の形をし、墓室の規模が大きくて立派。面積が最も大きい王陵は1,803uで、深さは15mもある。

墓の内部から出土した埋葬品は世界中でも類をみないほど綺麗で、殉葬者の人数も非常に多く、殷王朝の王侯貴族の身分の高さと尊厳が示されている。

 

ここでは、身分証明証の提示要求にパスポートで応じると、事務的に台帳への記録を命じられた。何でこんなにバラバラなんだろうか?

大きな広場。

 

王陵や家畜や奴隷を王や皇族が先祖に捧げた祭祀場の跡が保存されている。

M260展庁

 

「甲」字型の竪穴式王陵。

1934年、ここで后母戊鼎が発見された。

1984年、正式に発掘された。

王陵墓葬展覧館

 

13カ所の王陵墓は全て盗掘されていたが、幸い豪奢な副葬品などが残っていた。

王が死ぬと人も馬も生き埋め。切ない時代。

墓を作る工程が良く分かった。

馬車坑陳列館

 

発掘時の様子が興味深かった。

 

15:00 殷墟王陵遺址の参観を終え、本日の最後の目的地を目指して出発。

 

自作の野菜や卵を家の前で、うとうとしながら販売。気持ち良さそう。

少し前に迷走したエリア。

 

右へ行くと、迷走後に殷墟王陵遺址の標識を見つけた場所。

 

ここで改めて地図を確認。直進する道が無くなった時に、GPSが指していたのはこの交差点のことだった!

紡績路を越え東へ向った。

遠目に線路の下水飛沫を上げる車が見えた。心配しつつ前進していると、電動バイクが横を通り過ぎて行った。後姿を眼で追うと、下ることなく線路の下を通り過ぎて行った。

 

歩道があって良かった。

線路を越えるとG107。路線バスの姿を見て安堵。しかも、2日目に乗る予定の4路。これはラッキー。

 

バス停の場所も分かり元気が出た。

 

本日最後の目的地まで、あと200m

15:41隆福寺へ到着。

ここも地図アプリで目星を付けた所だが、どんな所なのか具体的な情報が見つからなかった。このことから、怪しいかもと思って来たが、見事的中!

 

ははは。

隣のお宅は見応えあり。十分取り返した。

先ほど見つけた三家庄バス停へ行きサインを確認。

 

宿を探さなければならないと思う一方で、主目的は達成したので良い宿が見つからなければ高鉄で北京に帰るかとも考えつつ、宿が一番見つけ易そうな公交車站へ4路で行ってみることにした。

 

北京に帰る選択肢は、予定の10/5は早朝か夜遅くしか高鉄の席が残っていないこともある。それも刻一刻と減っている筈。

市内行の車線にはバス停のサインが無い。どこで待てばいいの?

 

15:49 バスが来た。4路だ。1元札を握り締めた手を振る。しかし、止らない。

 

諦めかけていたら、通り縋りの電動バイクのオッチャンが「あそこだ」と、前方を指差し教えてくれた。掛け出すと、50mほど前方で停車。有り難いことに、私の到着を待ってくれた。北京では絶対に無い。感謝感謝。

バスは予想外の満員。暫く座れず。

 

市内に入ると、朝乗った11路と同じルートになった。初めての町だが分かり易くて嬉しい。

16:07公交車站へ到着。

 

市内の中心を南北に貫く彰徳路に面した場所だった。安陽火車站、安陽汽車中心站は目と鼻の先。何とも良いロケーションだった。

公交車站へ着く直前に招待所の黄色い大きな看板が見えたので行ってみた。

 

その前に、何か食べたい。賑やかな大院街を歩いて食堂を探した。

屋台は気になる所が色々あるが、気に入る食堂は出て来ない。

 

随分歩いたが見つけられなかった。

 

別の場所で食堂を探す前に宿を決めることにした。1軒目は、ドアを開けるとソファーに寝転んだオバはんが、休みと言った。2軒目はドアに頑丈なチェーンを巻き付け南京鍵でロックされていた。

3軒目は公交車站の並びの交通招待所。

 

入口が暗く敬遠した所だが、ロケーションは一番良い。

2階のフロントに行くと、子供が座っていた。

 

部屋は有るか聞いてみると、「有」との答え。ここで両親を呼ぶかと思いきや、シャワーは要るかと聞かれた。値段を聞き、部屋を見せてくれと頼むと直ぐに案内してくれた。

私が部屋を決めると、彼は母親に連絡。ヘルプを求めた様だが、応じて貰えず。私は彼とのやり取りが続く。部屋代は前払い。現金で支払おうとしたら釣りが無いとのことで、微信で支払った。

一旦部屋に入ったが、部屋の鍵を貰っていないので荷物を全部持って食事に出掛けた。

 

40/泊。高いような気がするが、こんなものか。

 

身体はウェットティッシュでふけば爽やかになる。ネックは髪が洗えないこと。どうしても我慢できなくなったら、床屋へ駆け込むさ。

彰徳路を北へ向い工人文化宮まで行ってみたが、気に入る食堂に巡り合えない。

 

結局、大院街へ戻り安陽名物を謳うこの店に決めた。

ジャガイモの粉を主原料とした扁粉菜。青菜、豆腐、豚の血入り。

そして、腸に詰めた豚の血を煮込んだ灌腸。

どっちも美味かった。

 

ビールを2本飲んで、合計22元は大満足。

灌腸は臭み無く、パクパク完食。

太った鰻をブツ切りしているような感じ。

 

「足りなかったらもっと入れてあげるよ」と、愛想の良いオバちゃんだった。

17:45 満足して招待所に戻った。

今度はフロントにオバちゃんもいた。宿泊手続きをする様に言われ、パスポートを出した。すると、「何処から来た」から始まり、山ほど質問責めに遭った。世界遺産の街とは言え、外国人が泊まることは極まれ。日本人は初めてとのこと。訝しげだったが、追い出されること無く良かった。

クタクタな上に足の小指にできた水膨れが我慢の限界。まだ早いが今日はこれ以上歩く気がしない。

 

本日の歩行距離21.8km35,479歩。上った階数8階。外は賑やかだが、ぐっすり眠れた。

 

2010.10.4(日)  2日分の予定を一気に

5:50 招待所を出発。今日のは、曹操高陵を見学した後、河北省邯鄲市まで移動する予定。

 

幸い小指の水膨れによる傷みは引いたが、不安が残る。

公交車站站でX52路の始発を待つ。

 

昨夜、改めて地図アプリでルートとバスの発車時刻を確認した所、計画した4路→X64路のルートではX64路が9:0015:00発の2/日であることが分かった。しかも、折り返しは15:0016:00発の2本のみ。これでは後の行程が厳しくなる。

別のルートを探すと、始発が6:10、乗り換え無しで行けるX52路のあることが分かった。但し、このバスに乗ると歩行距離が倍近くの3.9kmになる。

X52路は公交車站から発車するが、地図によると反対車線のバス停から乗車。本当かな〜、かなり不安。未だ暗い。仮にその通り走って来たとしても、スルーされてしまわないかも。

 

6:07 公交車站の動きを観察していると、X52路が動いた。先ずは走っていることに安堵。

動きを追うと、公交車站前のバス停に停まった。やっぱりこっち側ではない?

彰徳路のセンターラインに設けられた柵を乗り越え、一目散にバスへ向った。

無事乗車。若い運転手に、「終点の趙村まで」と行き先を告げると予想外の返事。「趙村には入れない」と。運転席前のプレートには「公交車站⇔趙村」と書いてあるのだが。

折り返し地点を教えてくれたが、どこか分からない。分からないが、兎に角終点まで行ってみることにした。

料金を聞くと、「5元」との返事。11路や4路の1元と比べるとバカ高い。しかし、ここで揉めても良いことは無いと思い、料金箱に5元札を投入。

6:10 発車。昨日4路に乗った三家庄を越えて暫くG107を北上。安豊郷・曹操高陵の標識で左折。一気に農村へ入った。時々現れる村の中は狭く、擦れ違いが難しい。そこをガンガン走って行く。マイクロバスの成せる業。

6:47 終点に着いたと言われ下車。公交車站からここまで約22km、乗客は私だけだった。

 

私を降ろしたバスは休むことなく折り返して行った。

 

地図で位置とルートを確認。予定していた趙村の東500m。曹操高陵へは趙村経由になる。歩行距離が更に延びた。

趙村へ向い出発。

とうもろこしの収穫が終わった広大な畑が続いた。

 

野菜の栽培も。

村の中にもとうもろこしが山積み。

道路には天日干し。

曹操高陵へ続くと思われる道路に出た。ここで先が見えた気がした。

地図には出て来ない謎の門。隣には水道橋の足が綺麗に並んでいた。

黄色い線はセンターライン。とうもろこしが2車線占領。

車は遠慮がちに反対車線を走る。

 

道路の先に大きな建物が見えた。目的地に違いない。あと少し。

“進入新時代”か、、、

あれ〜、舗装が無くなった。これは拙い。

7:43 全景が見えた。ダメだ!工事中だ!

 

地図のリンク先に「曹操高陵(建設中)」と出ていた。百度百科には、そんな記述は無い。

リンク先は更新されていないことが良くあるので私には信用度が低いが、ここはその通りだったか!

 

立派な道路があっても交通量が殆ど無い訳だ。

「三國志」などの史料によると、曹操は220年に洛陽で亡くなり、霊柩は城の西門豹祠の西の丘陵に葬られた。

20091227、中国考古学界の一致確認により、国家文物局は最終的に、考古学的に河南省安陽市安豊郷西高穴村南にある高陵墓の発掘者は曹操であると認定した。

2010611日、安陽曹操高陵は「2009年度全国十大考古学新発見」のトップに選ばれた。

20135月、第7期全国重点文化財保護部門となった。

同年6月、曹操高陵及び城遺跡は国家文化財局と財政部が承認した「大遺跡保護第125カ年計画」に入選した。

そんな経緯で工事が行われているようだ。

 

保安のオッチャンに聞くと、完成は3年後。

工事が完成すると、この辺りは大きな広場になるそうだ。

 

きっと、道路の舗装が切れたあの場所までだろう。

百度百科によると、地下には大きな陵がある。残念。

安陽までバスがある?

 

地図アプリで調べたがヒットせず。

X52路を目指し来た道を戻った。

8:49 X52路が折り返して行った交差点に到着。

 

ここで、いつ来るか分からないバスを待つ。

9:05 バスが来た。X52路。しかも、往路と同じ運転手。

待ち時間はたったの16分。運が良い。

 

目の前でUターンしたバスに乗車。行き先を三家庄と告げ、料金を尋ねると「前に乗った時は幾らだった?」と逆に質問された。「2元」と答えると、交渉成立。やっぱり朝の5元はボラれていたか?

今度は先の村で乗客あり。支払い額は、、、小さな子供連れの夫婦が10元。あぁ、5元は規定料金だったのか。小さな安堵。

9:33 三家庄で下車。交通量の多いG107で、車の流れが切れるのを待って横断。

 

横断中に、近付いて来るバスの姿が見えた。

 

目的の4路だった。1元投入し乗車。バス運はすこぶる良い。

9:42 終点の柏庄で下車。

ここで、安陽汽車站から邯鄲の馬庄収費站へ向う902路を待つ。

しかし、一向に来ない。

 

邯鄲行の大型乗合バスが通過した。通過後、手を上げアピールしてみれば良かったと後悔。

10:35 4路で町に戻ろうかと思っていたら、邯鄲行のバスが来た。見送って後悔したバスよりも一回り小さい。手を上げると、目の前で止まりドアが開いた。

 

行先を固城路口と告げると、OKの合図が返って来た。車掌のオバちゃんが空けてくれた最前列の席に座った。料金は6元。この先の行程を考え、1元札をキープするため10元で支払い。

10:50 河南省から河北省へ。

 

柏庄で30分待ってもバスが来なかった時には邯鄲行は諦めることも考えていたが、乗ってしまうと次の響堂山石堂へ行った上で今日中に北京に帰ることが出来るのではないかと思う様になった。

11:06固城路口へ到着。アッと言う間だった。

 

ここで106路に乗り換え。さて、バス停はどこ?10年前は近くの人に聞くしかなかったが、今はスマホで調べられる。便利な世の中になった。

地図の誘導に従い移動。

 

バス停はあるが、サインに106路は無い。大丈夫か?

 

ここで待っていると、反対方向へ行く106路が来たので安心した。

安心すると腹が減って来た。しかし、食堂に入ってゆっくり食べる訳にはいかない。

 

対面に並んだ派手な看板の芝麻焼餅が気になる。眺めていると、若者が立ち止まり、ものの数秒で買って帰った。あの速さなら、バス停を離れても乗り遅れることは無さそう。

 

早速、信号待ちで止まっている車の間を掻き分け道路を横断。

窯焼きの芝麻焼餅は1.2元。

 

無愛想な夫婦の焼く焼餅はふっくら。これだけで勝負しているとは恐れ入る。

あつあつで美味しかった。2個食べたら満足。

11:22 バスが来た。ここは乗降客が多い。

 

乗り込んでも直ぐに発車する気配が無い。これは反対方向へ行くバスも同じだったので心配することは無い。

 

運転手がドアを開けてバスから降りた。手にはバーコードリーダーを握り締めている。そして、乗降口から乗り込んで来て料金徴収を始めた。行先を夢園家居と告げると、5元だった。ここは現金で支払い。しかし、ワンマンでこの仕組みは面倒な気がする。

11:58夢園家居で下車。

 

最後の峰峰2路のバス停を探す。

12:03峰峰2路に乗車。最後に一つ残った座席へ座ると、オバちゃんがQRコードを握り締め料金徴収に来た。東和村と行先を告げると4元だった。QRコードをスキャンし、微信で支払い1元札を温存。

 

方法はマチマチだが、電子決済化が進んでいる。

12:08 響堂寺石窟前を通過。

12:40東和村で下車。

目的の響堂山風景区が目の前に迫って来た。

 

そこへ向け、一直線に上り坂が続く。

昨日とはうって変わり、青空が拡がり気持ちが良い。

 

火の鳥を思わせる雲。

クルマが羨ましい。

中腹に石窟が見えた。

胸が躍る。

坂を上り切った所にT字路。ここを右折し、残り720m

 

この残り区間は下りが続く。折角上って来たのに勿体ない。帰りの事を考えると、とても残念。

山に向かうゲートが閉じられている。もしや、、、

大きな塔も見える。

益々期待が膨らんで行く。

良く造ったものだ。

響堂山風景区の入口へ着いた。

 

他にも近隣に多くの観光スポットがある。

13:10響堂山風景区の自動車用ゲートを通過。歩行者や自転車は想定外。

おっ、バス停だ。604路。高鉄站には行かないが、火車站には行く。発車時刻は、13:1016:10。しかし、13:10のバスは姿が見えなかった。どうも怪しい。

調べて来た通り、観光車が走っている。水膨れが痛くて堪らない。絶対これに乗ろう。

目の前をバスが通過した。リヤガラスに「3」と出ている。もしや、峰峰3路?

 

前に回って確認を試みたが、走り去ってしまった。まあイイ。帰りの事は山を下ってから考えよう。

立派な售票処。不必要に大きい。ここも臭う。

響堂山石窟はまた響堂寺石窟とも言われている。河北省の最南端にある邯鄲市峰鉱区に位置。全国初の重点文化財保護機構に属す。

響堂山石窟は南北に分かれ、約15km離れている。河北省で発見された最大の石窟であり、国務院が初めて公布した国家重点文化財保護部門

北響堂(ココ)は河北省邯鄲峰鉱区にあり、風景が美しい響堂山(鼓山)の中腹に位置している。石窟は北斉年間(西暦550577年)に開削され、隋唐宋明の各時代に引き続き開削されました。現在16窟があります。大きさの仏像は4,300体以上で、大量の経文、彫刻がある。仏教、建築、彫刻、美術、書道の宝庫。中国の石窟芸術が唐代に写実的な風格を持つ発展の中で、上から下への役割を果たしている。

南響堂山石窟は鼓山の南麓に位置。観光スポットに入るとまず見られるのは寺院の殿宇と宋代の煉瓦塔。この山は高くなく、現存する石窟は7基。その中の千仏洞は最も壮観で、ダンジョンの中で最も人を引きつけたのは頂上の傑作。洞窟の頂は微隆で、蓮の花を彫ることと八尊の歌舞伎は天を飛ぶことを喜んで、時代の佳作を称する。

 

この解説は難しい。添削不能。

入場料60元。こんな建物を造らなければ半額以下で十分だろう。

早速観光車へ向う。

 

お〜、さっきの3番。観光車だったのか。

上まで運んでくれることを期待したが、見事に外れ。横に移動しただけ。それでも随分助かった。

 

馬に乗っても上には行けない。

13:41 とうもろこしで出来た黄色い門を潜り登山開始。

急な階段が続いた。何度途中で立ち止まり、腰を降ろしたことだろう。

半分も登る前に、左膝が悲鳴を上げ始めた。

14:09 漸く石窟へ着いた。

盗掘されたのだろうか?ここに鎮座していたであろう仏像が一体も無い。

登ったなぁ〜。目の前は真っ平ら。

いよいよ石窟とご対面。期待に胸が膨らむ。

お〜、凄い!

 

世界遺産の大同や龍門石窟、敦煌の莫高窟と比べると規模は小さいが、立派なもの。

良く彫ったものだ。

観音殿の奥にはキューピー人形が山積み。

天井まで緻密な彫りが施されている。

岩に直接経文が彫り込まれている。

これは美しい。

苦しい思いをして登っただけの価値あり。

中には崩壊している窟もある。

千人は入れそうにないが、相当広い仙人洞。

余りの暇さ加減に服務員は居眠り。どこでも一緒か。

下りは超急勾配の階段。ここを登って来る人がいるのは信じられない。

当たるも八卦、、、当たるかなぁ?

布袋が笑う常楽寺。

聳え立つ白塔。足元には仏像を彫り込んだ塔が彫られていた。

15:30 響堂山風景区を堪能し帰路に着いた。

オイオイ君達、堂々とゲート破りかい。

 

15:59 峰峰2路のバス停へ到着。下りなので早かった。

 

ここから峰峰102路に乗り、K5路へ乗り換え高鉄站へ向う計画。しかし、中々来ない。2路が1台通過。

2路に乗った場合のルートを調べると、何と、往路に乗り換えた夢園家居前から高鉄站へ向うバスの有ることが分かった。何だ、最初からこっちを提案してくれれば良かったのに。

16:15 峰峰2路へ乗車。

 

オバちゃんがブラブラさせているQRコードをスキャンし4元支払い。

16:49 それらしい所で待っていると、高鉄站行のバスが来た。実に調子が良い。

 

周囲の人もバスを見て動き出した。

 

全員乗り込み席に着いたが、ハザードランプを点けたまま動かない。

一呼吸置いて、運転手が料金徴収を始めた。

 

このバスはリーダーで読み取るタイプ。高鉄站まで12元。高いな〜。

調べてみると、高鉄站まで49.2km。高い訳だ。所要時間は、1時間26分。

 

17:00 発車。これを逃すと、次は18:10。つくづく運が良かった。

18時を過ぎ、夕闇が迫って来た。

 

食堂前の歩道に並べられたテーブルで夕食の始まる様子が見えた。あぁ、腹が減った。

18:25高鉄站へ到着。

 

何時に着くか分からないので、着いてから高鉄のチケットを購入するつもりで来たが、標準時間通り到着とは恐れ入った。

大きな駅。しかし、薄暗く何一つ案内板が無い。

 

兎に角、明りのある方へ歩いて行くと自動券売機があった。その向うに入口も見つかった。

 

よし、チケットを買おう。連休の中日なので、どの列車も空席あり。一番早く発車する19:13 G6744に決めた。209元の支払いまで無事終了し、携帯にショートメッセージが飛んで来た。

準備完了したので、発券せずに駅へ入った。

先ず安全検査でパスポートを服務員へ渡す。パスポートNo.を機械に打ち込み、現れた画面とパスポートを見比べる。

通って良しとの合図。第一関門突破。

 

大きな待合で検札開始を待つ。

検札が始まった。

 

ここでもパスポートを服務員へ渡す。パスポートNo.を機械に打ち込み、現れた画面とパスポートを見比べる。

通って良しとの合図。やはり、パスポートがあれば乗車できる。これならば、ギリギリに着いても慌てなくて済む。

G6744は邯鄲東站が始発なので直ぐ乗車できたのも良かった。

21:15 北京西站へ到着。

 

東直門まで、地下鉄にするかバスにするか迷いに迷った。結論は、歩く距離が短いバスにした。何せ、足が痛くて痛くて堪らない。

2路の2階席から北京市内の夜景を見ながら帰路に着いた。

22:24 東直門内の龍香記桂林米粉で遅い夕食。

いつもの尖椒肉絲仔飯を食べながら、濃密だった2日間を振り返った。

 

23日の計画を、フルコースこなして1日短縮できるとは全く思いもよらず。交通網の発達とスマホのお蔭。これならば、どんどん色々な所に行ってみたいと思う。

本日の歩行距離22.6km36,303歩。上った階数70階。水膨れの左足の小指は皮が全面捲れ、翌日はヒリヒリとても痛かった。



 

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