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トコトコ中国バスの旅 |
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▼My Collection −
Monkey − 訪問地 −
美食
【旅日記】
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2026.5.2(土)
大空を泳ぐこいのぼり群の姿は壮観 |
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端午の節句が近付いた。 グッドタイミングで、大量のこいのぼりが大空を泳ぐ場所を発見。 今回は、海部郡蟹江町の佐屋川創郷公園を目的地に決めてルート設定。 |
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10:25 蟹江町の『みかくどう』へ到着。 営業開始5分前だったが、店内は既に熱気と良い匂いに包まれていた。 チョイチョイTVで紹介されている有名店。 R1舟入一丁目交差点の北東角。片側1車線で渋滞する場所。目に付く。駐車場の無いのが難点。 |
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オーダーはセルフサービスでメモ紙に記入。 大量のたこやきとワッフルは自宅で作って持参。店内では焼かないので売り切れ御免。 たこやきは5個60円!驚きの値段。ワッフルも同じ。 店内に50周年の寄せ書きがあったが、暫く前の物に見えた。 |
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お好み焼12枚、焼きそば10人前を一度に調理。 みたらし、おでん、ランチもあり、3人がてんてこ舞い。 吊るされたメモ紙がオーダー。バンバン電話が掛かって来て、大量。 |
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オーダーは、お好み焼 肉・玉 150円と焼きそば大盛、これも150円。 懐かしい駄菓子屋のお好み焼。美味かった! |
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スルーして焼きそばをパック詰めしてしまい「遅くなったから」とランチのカレーをサービスしてくれた。 大盛焼きそばは、想像を越えた大盛。薄味でソースが欲しかったが近くに無かったので我慢。 腹パンパン。物価高騰のこのご時世、これで300円とは驚き! |
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11:30 佐屋川創郷公園へ到着。 佐屋川は、日光川と蟹江川の間を流れる。 いるいる。 |
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お〜壮観! |
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風の具合がちょうど良かった。 |
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立派なのぼり旗もあった。 |
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町の花「ハナショウブ」は未だ咲いておらず。残念。 |
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大量の亀や鯉が泳いでいた。 |
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高さ13mの展望台からは、濃尾平野が360°見渡せる。 近鉄名古屋線は列車の種類が豊富で面白い。 |
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蟹江川に架かる御葭橋。昭和58年(1983年)竣工。 年2回、須成祭の巻藁船や車楽船が通過する宵祭りと朝祭りの時だけ跳ね上げる巻上げ橋。 面白い。 |
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須成祭は、須成地区の氏神である冨吉建速神社・八剱社両社の祭礼。 夏の疫病退散と五穀豊穣を願うために行われ、400年余りの歴史がある。ユネスコ無形文化遺産。 祭りの中心は、8月第1土曜日・翌日曜日に行われる「宵祭」・「朝祭」。 宵祭では提灯をつけた巻藁船が、朝祭では人形を乗せた車楽船が囃子を奏でながら蟹江川を上る。 江戸時代に海部郡北部の排水を容易にするため川の形状や流速を変える治水工事「瀬替え」が行われた。 これにより、ここで須成祭が行われる様になった。 |
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12:00 須成祭の舞台となる冨吉建速神社・八剱社へ到着。 祭神は冨吉建速神社が素戔嗚尊(スサノオノミコト)、八剱社が草薙神霊と熱田五神。 天平5年(733年)創建、木曽義仲が再建、織田信長が社殿を造営したとされている。 また、豊臣秀吉が米銭を献じて疫病退散を祈願したとも伝わる。 両社の本殿は共に室町時代の建築様式を残しており、国の重要文化財に指定されている。 |
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が、目の当たりにすることは出来ない。 冨吉建速神社本殿は一間社流造桧皮葺、八剱社本殿は三間社流見世棚造桧皮葺。 夫々室町時代の特色を持った建物。前流れの屋根や蟇股などの手法が優れた、国の重要文化財。 |
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隣に建つ蟹江山常楽寺龍照院。 天平5年(733年)に行基菩薩が創建。平安時代末期の寿永元年(1182年)に木曾義仲が再興したと伝わる。 最盛期は、七堂伽藍のほか龍照院を始めとした18の坊や寺院があったとされている。 天正12年(1584年)の蟹江合戦で兵火に遭い、龍照院と本尊だけ残った。 現在の本堂は、明治24年(1891年)の濃尾地震の際に倒壊し、再建されたもの。 |
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御本尊の木造十一面観音立像は、国の重要文化財。 寿永元年(1182年)に仏師僧の教円によって造られたとの銘文が像内にある。 高さ1m73�p、やさしい表情が特徴。毎月18日を公開日として御開帳している。 |
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境内の大日堂に、西国三十三観音と共に平安時代末期作の大日如来坐像安置されている。 木曽義仲の菩提を弔うために巴御前が安置したものと伝わる。 |
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巴御前は、信濃へ逃げ落ちる際、義仲建立の寺であることを知り、ここに大日如来坐像を安置。 髪を下ろして尼となり、義仲の菩提を弔った。 |
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高さ105cm、台座82cm。 濃尾地震の際に顔面が破損。素人修理の痕跡があり、国や県の文化財には指定されておらず。 惜しい。 |
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2026.5.16(土)
岐阜のグランドキャニオンは伊達じゃない |
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5月の爽やかな天気に誘われて岐阜のグランドキャニオン、加茂郡川辺町の遠見山へ向った。 随分前になるが、登り始めたものの日没が心配で途中で断念した。 あれ以来、リベンジを考えていたが登山道のキツイ上りを思い出し中々踏ん切りがつかなかった。 強烈な外観で前から気になっていた町中華のランチが絶妙な事を知ったのが決め手。 |
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10:06 古井の天狗山を通過。 最短ルートはR41だが、恐ろしいので旧道の県道207、371を走った。 少々遠回りだが、比較的交通量が少なく、信号も割合少なく、走り易くて正解だった。 正面に見える山が目的地か? |
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10:19遠見山登山口へ到着。 意気揚々と登山開始。 |
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遠見山は岩肌剥き出しの絶壁の山。 さほど高くは見えないが、、、 |
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JR高山本線の前島拱渠を潜り、登山開始。 いや〜、キツかった!日頃の不精のツケだ。 登山道が細い丸太で階段状に整備され、難所にはロープが張ってあり、とても助かった。 |
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10:46 見晴らし岩が見えた。 素晴らしい景色よりも、登山の終りが嬉しかった。 かつてここには稲葉一族の下麻生城があり、美濃金山城主の森長可が攻め落とした。 登るだけで息が切れた。敵と戦うなど私には全く無理。昔の武人は平気だったのか? |
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お〜絶景!苦しみながら上った甲斐あり。 ここでほぼ直角に曲っている飛騨川、町並み、権現山を一望。 不覚にもここでカメラを落し、シャッターが半開きになった。 指で押すと開く。原因は、レンズカバーの変形。あ〜ガッカリ。 |
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足が笑い始めている所にそんな出来事。追い打ちを掛ける様に、下山中に落葉に足を滑らせ尻餅。 更にルートを間違え危うくまた登山かと思う場面も。前回途中で引き返した判断は正しかった。 飛騨川橋から今一度見晴らし岩を見上げてみた。やはり大した高さではない、、、 |
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11:40美濃加茂市のらぁ麺 楽楽へ到着。 黄色の派手な外観がずっと前から気になっていた。 調べてみると、予算にバッチリ合ったランチを提供していた。 店主は可児市の満楽ラーメン出身。味が似ているとの評価も決め手の一つ。 |
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オーダーは、もちろん今日のランチ 830円!中華そば、回鍋肉、ご飯、冷奴、たくあんのセット。 中華そばは、麺・スープともに絶妙。ホロホロの細切れチャーシューがゴロゴロ入っており、太っ腹。 日式町中華の回鍋肉も美味い!ご飯がもう少し欲しかったが、大満足。絶対また行こうと思う。 こんなお得なランチがあるのに隣のオッチャンは青椒肉絲ぶっかけ飯。メニューに見当たらないが美味そう。 |
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2026.5.23(土)
旧道で巡る土木遺産 |
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120年前に造られた岐阜県瑞穂市の五六閘門へ、いつか行ってみようと決めていた。 いよいよ決行。調べて行くと、近くの揖斐大橋と長良大橋も土木学会選奨土木遺産だった。これでルート決定。 長良大橋は、てっきり金華山の麓だと思っていたが、向こうは長良橋だった。 |
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10:20 岐阜県大垣市と安八郡安八町を結ぶ揖斐大橋へ到着。6連アーチが美しい。 昭和恐慌による失業者への救済策である「岐垣国道改築工事事業」の一つとして、揖斐川に架橋された。 岐阜県道31号岐阜垂井線の橋梁だが、昭和49年(1974年)までは国道21号だった。 |
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道路と養老鉄道養老線の併用橋として昭和8年(1933年)に竣工したが、鉄道計画は事業化されず。 昭和39年(1964年)に軌道敷は道路床版に改められ、道路専用橋となった。 どおりで広々としている。 |
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形式 曲弦ワーレントラス橋 材料 鋳鋼 全長 384.80m 幅 14.815m 最大支間長 64m 公益社団法人土木学会が「日本の近代土木遺産」、「土木学会選奨土木遺産」に認定。 |
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瑞穂市の五六閘門へ向う途中、趣のある風景に出会った。 「歴史の道 鎌倉街道 美濃路」 東は墨俣一夜城、西は結神社。 |
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10:44長良川支流の五六川に設けられた五六閘門へ到着。 牛牧輪中における下流からの逆流を防ぐ人造石構造の樋門。別名、牛牧閘門。 後代のより広域な治水にも機能している貴重な遺産。 明治40年(1904年)竣工。「土木学会選奨土木遺産」 |
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長さ12m、高さ8.5m。 二連アーチ式の樋門。観音開き鉄扉2基を備える。 長良川が増水すると水位差によって自動開閉し、逆流を防止。 素晴らしい! |
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牛牧輪中は海抜5-6mの低湿地で、出水の度に起こる逆流による浸水・滞留水に悩まされていた。 寛延2年(1749年)、幕府直轄地美濃郡代配下・本田代官となった「川崎平右衛門定孝」が治水事業を開始。 宝暦7年(1757年)、木造の水門「牛牧輪中逆水留樋門」が建造された。 その後150年の間に4・5回の建て替えられた後、「人造石工法」によって現在の水門が建造された。 |
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門の袂には、川崎平右衛門を祀る「川崎神社」があった。 現在も偉徳を偲んで祭事に奉仕しているそうだ。 |
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コンクリート工法が普及する以前の水門で、左官の伝統技術である「たたき」の技術を応用した構築物。 水門に限れば岐阜県で唯一現存。 剥き出しとなった水道管にも歴史を感じた。 明治用水頭首工など、人造石工法で建造された多くの遺構は愛知県を中心に残っている。 |
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鋼鉄の水門は今も閉じるのか? |
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一輪車を押した農家の婆ちゃんが横断していた。 橋としても大いに役立っている様だ。 |
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11:10 かあちゃんの味「水月」へ到着。 清流サルスベリ街道の一本東を走る旧道沿い。 店頭ホワイトボードのお奨めメニューを確認して入店。 |
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席は既に7割方埋まっていた。 近くに朝日大学があり、学生の利用が多い多い様だ。 小さな店だが、メニュー豊富でビックリ。 |
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オーダーは、玉ネギ入りスタミナ800円!甘いソースの絡んだ牛肉は柔らかく抜群に美味かった〜。 こんなに品数があり、この値段、メニューも豊富と来れば、人気が出る筈だ。 是非また行きたい。 |
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道路を挟んで向かい側にも駐車場あり。 お店の爺ちゃんにそっくり。常連の学生が書いたものだろうか。 |
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11:43 大垣市の墨俣一夜城横を通過。 昭和56年(1981年)に竣工した犀川制水樋門。 現在はここで逆流防止。 |
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直ぐ南に長良大橋。 揖斐大橋と同サイズ。 遺産認定も同じ。 左岸は岐阜市。 |
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竣工も揖斐大橋と同じ昭和8年(1933年)。 工期2年で同時に2つ大きな橋を架けるとは、恐るべし。 |
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今回は旧道で土木学会選奨土木遺産を巡った。 片側1車線、所々で渋滞もあったが、沿道に並ぶ商店までの距離が近く、スピードも遅くて楽しかった。 この方面に行く時はこの道を利用しよう。 |
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2026.5.30(土)
ワールドカップ優勝祈願 |
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いよいよ 2026
FIFAワールドカップの開幕が近付いて来た。楽しみだ。 明日はW杯前の国内最終戦となる「キリンチャレンジカップ 2026」アイスランド代表戦。 サッカー神社と呼ばれる日進市の白山宮へ優勝祈願に向かった。 |
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10:00白山宮へ到着。 その昔、通勤に使った道から100mほど脇に入った所で迷わず着いたが、神社はどこ?? サムライブルーのレプリカユニフォーム姿のオヤジが運転する車と擦れ違ったので場所はここで間違いない筈。 急坂路入口の看板には通り抜けできないと書いてあったが、取り敢えず上ってみた。 |
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大きな駐車場があった。 が、どこ?駐車場を通り抜けても見当たらず。 坂の上に見えた建物の左が神社だった。 |
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こじんまりとした鳥居の向こうに、八咫烏が見えた。 境内には多くの神が祀られている。中でも珍しい足腰を守るとされる足名椎神を祀る足王社が有名。 日韓共同開催だった2002
W杯の年に足の御守として日本代表チームエンブレム織り込み御守りとエンブレム絵馬を授与し始めたところ大当たり!多くのサポーターが押しかけ「サッカー神社」と呼ばれるようになった。 今では足腰の神様としてプロスポーツ選手を始めスポーツに勤しむ多くの人々が参拝に訪れる。 |
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古い時代、名古屋市の一部から瀬戸市に及ぶ広範囲が愛知郡だった。日進の市制は平成6年(1994年)。 白山宮は、この地域の総鎮守の神と崇められていた。 万物を括り結び合わせるご神徳を持つ菊理姫命が主祭神。 夫婦和合の神・伊弉冉尊、産業生産の徳を持つ大國様・大巳貴命を祀る近郷無双の古社。 |
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八咫烏は、日本神話に登場するカラス。導きの神。一般的に三本足の姿で知られる。 神武東征の際、高皇産霊尊により神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国へ道案内したとされる。 昭和6年(1931年)、日本サッカー協会の創設メンバーであり、明治神宮の関係者でもあった人物が、「勝利へ導く神の象徴」として八咫烏をシンボルマークに提案したそうだ。 |
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本殿の横に、 「稲荷社」、「山神社(三社)」、「秋葉神社」が並んでいる。 香良洲神社は、三重の香良洲神社から勧請。婦人の守護神とされる稚日女尊を祀る。 八咫烏に掛けたもの? |
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サッカースタジアムの様な「足王社」本殿。上空からは鞋や足袋の形に見える。 これはユニーク。 かつて飯田街道の裏街道に祀られていた足名椎神を太平洋戦争の終戦前後に勧請した。 |
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本殿裏側に奉斎された「痛みとり石」。 撫でると足腰の痛みを取り除く。足腰を強くするとも言われる伝説の石。 |
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絵馬多数。八咫烏もあれば、サッカーにバスケットのボール。 ガンバレー! |
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起爆剤になった御守り1,000円に少々心が動いた。 |
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最初に上った急坂路を下り、50mほど先に進んだ所が正面入口だった。 ここにも駐車場有。擦れ違ったレプリカユニフォームのオヤジはここに置き、参拝した帰りだったらしい。 清々しい参道だが、結構階段がキツそう。上の駐車場へ行って正解だった。 |
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10:40 愛知郡東郷町の愛知池「水源地の石」へ到着。 愛知用水の水源は、木曽川上流の牧尾ダム、阿木川ダム、味噌川ダム。 水源地への感謝を忘れないよう、その3ケ所の石を並べて置いてある。 |
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東郷調整池が正式名称だった。水路の水を管理するために造られた。 全長約112kmの「幹線水路」のほぼ中央部にあり、日進市・みよし市・東郷町に跨る。 高さ31m、有効貯水量900万m3、名古屋ドーム約5杯分の土を盛り立てて作ったアースダム。 ランナー多数。1周約7.4km。気が遠くなる。 |
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10:45 乙女ちゃんへ到着。水源地の石から300m足らず。 営業開始は11:30、完全に出発時間を読み違えていた。 ラーメン炒飯800円?腹だったが、45分は待てない。 場所は分かった。また計画しよう。 |
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11:25 瀬戸市のアピタへ到着。屋上駐車場へ停め、「みのや」へ。 春日井へ向っている途中、道路標識に「瀬戸」が出て来た。それを見て回り道。 久々に行ってみると、肉うどんは80円値上がり680円になっていた。このご時世、仕方ない。 今回は大盛り+100円。食べても食べても、暫くは減った気がせず。大満足。瀬戸らしい薄切り豚肉が美味い! |
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2026.6.13(土)
伝説と歴史の旅 |
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今回は伝説と斎藤道三、織田信長に纏わる岐阜県岐阜市の歴史の旅。 快調にスタートしたが、R22へ出る手前からエンジンがパラパラ失火。嫌な予感。 信号で止まるとストールする割合が徐々に増加。しかし、キック一発で再始動するので引き返さず前進。 目的はコンプリートし、帰路も最短のR22をチョイス。何とか帰宅できたが、ヒヤヒヤだった。 |
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10:24 雄総山護国之寺へ到着。 天平18年(746年)、聖武天皇の勅命により行基が開山したと伝わる。 開山には、奈良の大仏造立に関わった「日野金丸」の伝説がある。 楼門は、宝暦12年(1762年)、良恭・良観両上人により再建されたもの。 三間二面、重層の楼門で、欅材を使用し、自然石の礎石の上に円柱を建てた重厚な造り。 地元長良の大工棟梁の手によるもので、その時代の特徴を良く示し、後年の修理補修も少なく良好な状態。 |
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正面2間には、迫力満点の仁王像が安置されている。 【日野金丸伝説】 聖武天皇は東大寺の大仏を造立するため、優れた仏師を探すための使者を日本各地に派遣。 美濃国に派遣された使者が夢で「明日の朝、最初に出会った人物が探している人物である」とのお告げを聞く。 それが川で牛を洗っていた童子・日野金丸だった。 金丸がその場で作った粘土の仏像の出来の良く、奈良へ連れて行き、大仏建立の責任者として活躍した。 大仏落慶法要の最中の釈尊のお告げで、聖武天皇が釈尊由来の鉢を金丸に授けた。 |
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日野金丸はこの鉢を納めるため、故郷に護国之寺を建立。 死後、十一面千手観世音菩薩像となり、護国之寺の本尊となった。 本堂は天正18年(1590年)に兵火で焼失。江戸時代に順次再建。 現在の建物は、元文から宝暦年間の建立。 |
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本堂からは、楼門の延長線上に金華山、岐阜城が見える。 |
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10:59 道三塚へ到着。 岐阜メモリアルセンターの北。織田信長菩提寺の崇福寺から西北西約400m。住宅街の一角。 斎藤道三は、父・長井新左衛門尉の跡を継ぎ、守護代、斎藤の名字を名乗り、国盗りに向けて勢力を伸ばした。 天文13年(1544年)には、稲葉山城下まで攻め込んできた織田信秀率いる尾張の軍勢を撃退。 |
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天文19年(1550年)頃、道三は美濃国の守護、土岐頼芸を大桑城から追放し、美濃国の戦国大名となった。 弘治2年(1556年)、道三と嫡男・義龍が対決。長良川で対陣、中の渡しで激戦が繰り広げられた。 この戦いで道三は敗死。遺体は、現メモリアルセンター付近に埋葬されたが、塚は度々洪水に見舞われた。 天保8年(1837年)に常在寺の住職により現在の場所に移された。 |
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11:19 お濃之墓「濃姫遺髪塚」へ到着。 金華橋で長良川を渡り、南岸へ。金華橋を渡ったのは何十年振り?その昔、無灯火で捕まった事を思い出す。 住宅街の道路の真ん中に巨木。日本とは思えない雰囲気。 巨木の根元に塚があった。 |
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濃姫は、斎藤道三と可児明智城主・明智三継の娘で才色兼備と言われた正室・小見の方との間に生まれた。 本能寺の変で信長と共に亡くなった濃姫の遺髪が、逃げ延びた家臣によってここに埋葬されたと伝わる。 昭和20年(1945年)7月、B29の空襲で墓石焼失。30年後、墓の碑文が見つかり再建された。 |
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隣にある西野不動尊。 稲葉山城主織田信長の命で城下町の四方を守護した四天王の一つ。 他は、伊奈波善光寺、小熊の地蔵、美江寺の観音。 |
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11:28 忠節橋へ到着。 R157とR303重複区間の長良川に架かる鋼製アーチ橋。全長 266.06m、幅 17.6m、最大支間長 80m。 補強工事や高欄の取替えなど行われているが、その姿は昭和23年(1948年)竣工当時と殆ど変らず。 土木学会の選奨土木遺産。 |
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現在の橋は4代目。平成17年(2005年)まで、電車が走る併用軌道橋だった。懐かしい。 流路(低水敷)を跨ぐ部分の橋梁形式に、ブレースト・リブ・バランスト(カンチレバー)・タイドアーチ橋を採用。 日本に現存するこの形式の橋は、旭川の旭橋、岩手・一関の北上大橋、東京の白鬚橋と忠節橋の4例のみ。 |
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上流には、ついさっき渡った金華橋が見える。 明治の初めまで長良川には橋が架かっておらず、この辺りは「忠節の渡し」が唯一の渡河手段。 明治7年(1874年)に明七橋(長良橋)が、明治14年(1881年)に河渡橋が架けられた。 今では、最初に渡った鵜飼い大橋から約5kmの間に4本。便利になったものだ。 |
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500m下流には大縄場大橋が架かっている。この橋、何とループ橋。 昭和46年(1971年)頃計画されたが、長良川左岸の橋取付部分が反対運動で用地買収交渉が難航。 右岸の用地買収・設計も昭和49年(1974年)の都市計画決定から10年も経る事となった。 更には、名称でも揉め、難儀の末、平成3年(1991年)に漸く竣工。 |
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ループでは、上海と伊豆を思い出す。 それに比べては規模はグンと小さいが、立派なループ橋だった。 中心は公園になっていた。 |
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11:40 山中食堂へ到着。 ループ出口の信号を左折して50m。 昭和レトロな外観。勿論、店内も。カウンター 5席、小上がりテーブル2つ。でも席は3つ。頑張れば6席。 入店時は空いていたが、直ぐに満席になった。危なかった〜。 |
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オーダーは、みそかつ定食
880円。味噌だれも美味いが、肉がメチャクチャ美味かった! 1,100円の”上”はどんなもんか興味津々。また行ってみよう。そして、上を食べてみよう。 他にもメニューは色々あるが、何と満員の店内全員がみそかつ定食だった!うち2割ほどが上。 名店多しと言えど、全員が同じオーダーは聞いたことが無い。みそかつの隠れた超名店だ。 |
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12:32 鷲林山常在寺へ到着。岐阜大仏の正法寺の直ぐ近く。 斎藤家の菩提寺。斎藤道三公と父・長井新左衛門尉が二代に亘り美濃国を制する拠点とした寺。 宝徳2年(1450年)、土岐家守護代として権力を持ち、事実上美濃を支配していた斎藤妙椿が建立。 重要文化財に指定されている斎藤道三肖像画と斎藤義龍肖像画が所蔵。本堂内にレプリカが展示してあった。 |
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日蓮宗、京都妙覚寺の末寺。 父・長井新左衛門尉は、京都から美濃へやって来た商人だったとか。 道三公が菩提寺とし、以後三代の菩提寺となっている。 境内に斎藤道三の供養碑がある。 |
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本堂横のお堂は古そう。 |
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12:53橿森神社へ到着。 伊奈波神社御祭神、五十瓊敷入彦命の皇子の市隼雄命が御祭神。 第12代景行天皇の時代に創建。 慶長5年(1600年)に兵火、慶安2年(1649年)に火災の難に遭った。 |
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橿森神社の境内に織田信長公を主祭神とする「建勲神社」がある。 明治時代に京都の建勲神社から分霊された。 京都の建勲神社は、明治2年(1869年)、明治天皇の御下命により創建された。 「日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一をめざして日本を一つにまとめた信長のおかげ」が理由。 |
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橿森神社参道の入口に、宝永3年(1706年)の古地図にもある大きな榎が植わっている。 「岐阜総構の内は内町、構の外は外町、南へは美園にて″市立市神″として今に榎あり」 と江戸時代の資料に示され、織田信長が美園で開いた楽市楽座の楽市神社がこの木の下に祀られた。 現在の社前の榎は、美園の榎の孫に当るもので、「市」の文化財に指定されている。 明治11年(1878年)、明治天皇御幸のため道路改修が行なわれた際、現在地に移植されたもの。 |
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2026.7.11(土)
伝説と歴史の旅が続く筈だったが |
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前回の帰路、エンジンの調子が悪くなり、エンストの蓮発で苦労した。 その後、久々に早矢仕へ行き、タイヤと一緒にプラグを購入して交換。 それから雨が続き休んでいたが、天気は晴れ。晴れると暑くて出掛けるのが億劫だが、一念発起。 とは言え遠出する気にはならず、犬山市の木之下城伝承館・堀部邸へ行ってみることにした。 |
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10:35 江戸時代、名古屋城下と犬山城下を結んだ稲置街道の馬頭観音の東に立派な赤門が見えた。 文明8年(1476年)、柏庭宗松によって徳寿院として創建された徳授寺の山門。開山は桃隠玄朔。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで森長可と池田恒興が殿堂や塔頭を借り受け、丹羽郡楽田村の茶臼山に布陣した。 山門は、江戸時代前期竣工。切妻造、桟瓦葺、桁行2.8m、梁間1.8m、間口2.8mの薬医門。 |
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稲置街道を北上すると、厳骨庵がある。 犬山名物の「げんこつ飴」を製造販売する最も古いお店。180年以上の歴史を持つ。現在は7代目。 黒砂糖を煮詰め、自家製きな粉で練り上げた三角錐形の飴。子供の頃、祖母ちゃんの犬山土産で良く食べた。 桃太郎神社にちなんだ「きびだんご」も販売。 |
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10:43 木之下城伝承館・堀部邸へ到着。門が閉まり、ひっそりしている。嫌な予感。 何と、12:00開館だった!この観光地で、そんなことがあるとは思わず調べて来なかったことを後悔。 代々犬山城主に仕えた武士、堀部家の住宅。 |
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明治初年に堀部勝四郎がこの土地を購入、養蚕業を営んだ。 約400坪の敷地の中に、主屋、離座敷、土蔵などの建物が残されている。 そのうちの6棟が平成18年(2006年)に国の登録有形文化財となった。 |
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建物自体は明治期以降に建てられたものだが、随所で武家風屋敷の特徴を見ることが出来る。 涼しくなったら出直そう。 木之下城は、織田氏の居城。堀部家住宅から東へ300mほどの愛宕神社周辺にあった模様。 天文6年(1537年)、信長の父、信秀の弟、信康が廃城し、現在の犬山城付近に城を移した。 |
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稲置街道を北上、本町通りに変わり犬山城が見えて来た。 暑さからか観光客が少ない。 |
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そこに、吉本芸人の小鈴木が人力車を引いてやって来た。 芸歴20年、車夫歴12年。 吉本興業と犬山市の地域活性プロジェクト『愛知県住みますプロジェクト』で犬山出身の彼に声が掛かった。 |
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11:01 犬山駅東ロータリーの「からくり時計モニュメント」へ到着。 桃太郎伝説をテーマに、犬山祭の山車からくり形態をデザイン化したもの。 平成4年(1992年)に「愛知のふるさとづくり事業」で作った。 屋根、上山、中山、下山、車台 と遠目には立派。 |
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一日4回、次は正午に動く様だが、、、 雨漏りするのか?ビニールが掛かった状態を見ると、とても信じられない。 維持の事はさて置き、兎に角実績作りで作ったのだろ。勿体無い。 |
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11:15 ひゃくにんごはん、へ到着。 伝承館が開いていなかったのでランチ開始まで15分ある。少し外で待機したが、暑さに負けて入店。 オーダーは、日替りランチの鳥南蛮定食 990円。美味かった〜。唐揚げが有名なだけある。 モーニングのサンドイッチも気になるが、やっぱりランチ。また行こう。あっ、しまった、店の外観撮影を忘れた。 |
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2026.8.8(土)
こんな所に滝があったとは |
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さあ夏休み。毎日暑くて外出する気にならないが、燻っているのも勿体無い。 エンジンの調子が今一つなのも燻り要因の一つだが、思い切って出掛けてみた。 目的地は、瀬戸市の石樋の滝。 |
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11:14 石樋の滝へ到着。 場所は、定光寺から県道207号線を南へ2.8km。 まさか県道の直ぐ脇とは思わず行き過ぎてしまった。 |
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樋ヶ沢川の巨大な一枚岩に、その名の通り石の樋があった。全長約60m。 川床の花崗岩の岩盤が流水によって永い年月をかけて浸食された「方状節理」現象によるもの。 ここは名古屋城築城時の石丁場と考えられているそうだ。 |
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直径約120cmの巨大な球体は、平成23年(2011年)の集中豪雨でどこからか転がって来たもの。 あそこで止まったのが不思議。龍神石と名付け保存されている。 あの時は庄内川の水位がみるみる上がり、R19は大渋滞。歩道を走るクルマもあり大混乱だったなぁ。 |
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龍神石の奥に落差8mの滝。 知らずに何度も素通りしていたが、なかなか面白い所だった。 雨の後も見てみたい。 |
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11:40 JR神領駅南の「喫茶ひなご」へ到着。 ランチ開始の11:30を狙って来たが、失敗。店外に待ち6人。 ちょっと迷ったが、折角なので待つことにした。記名表を探したが無かった。 待つ事40分、漸く入店。エアコンの効いた店内は天国だった。 |
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オーダーは、ハンバーグ定食
1,000円。箸で割ると、肉汁がジュワ〜っと流れ出て来た。 柔らかくて美味い!デミグラスソースも抜群に美味い。以前テレビ番組で紹介されていた通り。 ライス大盛が無料なのも嬉しい。今までスルーしていて損した気分。 ロースカツ定食や和風ランチも食べてみたい。 |
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2026.8.22(土)
信長鉄砲隊のルーツがここにあった |
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最近、山本兼一にハマっている。信長三部作の『雷神の筒』を読み、稲沢市の片原一色城跡へ向った。 帰路はエンスト多発。草臥れた。 |
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10:45 神明社へ到着。この辺り一帯が城跡。東西109m、南北73-91m。 応永年間(1394-1427年)の築城とされ、8代に亘り橋本伊賀守の居城だった。 慶長20年(1615年)、一国一城令により廃城。 5代目 橋本一巴が織田信長の火縄銃の師匠だった。 |
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『信長公記』によると、信長は16-18歳の頃、弓を市川大介、鉄砲を橋本一巴、兵法を平田三位に学んだ。 寛永10年(1633年)編纂の『国友鉄炮記』によると、一巴は天文18年(1549年)に鉄砲撃ちとして世上に名高いことが信長の耳に達して召抱えられ、同年7月18日に信長の命で国友村の鉄砲鍛冶・国友善兵衛らに六匁玉鉄砲500挺を注文したという。 桶狭間の6年前、天文23年(1554年)の今川軍との「村木砦の戦い」で織田軍が日本初の鉄砲戦を行った。 |
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灼熱地獄の中を探し回り、漸く痕跡を発見。 |
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と思ったら、昭和44年(1969年)物、愛車と同級生で少々ガッカリ。 歴史上の重要人物と思うが、ここまで何も無いとは残念。 それにしても、信長三部作の『戦国秘録 白鷹伝』、『火天の城』、『雷神の筒』はどれも面白かった。 |
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11:20 らあめん倶楽部 れんげへ到着。 国府宮駅の南西約200m。老夫婦が営む。駐車場1台。夜営業もあり。 先客1名、食べていたら、先客と入れ替わりに1名来店。 |
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オーダーは、満腹セットの「どて丼+れんげらあめん」 650円+めん大盛100円。 らあめんは、塩か醤油を選べる。迷いに迷って醤油を選択。美味かった〜。 ホルモンはしっかり煮込まれ、とても柔らかく、どて丼も絶品!良いお店を見つけた。 平日のみの日替りランチ680円も気になる。 |
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